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2017/02/28:特別追悼号
 

Dr. Garfieldと私の30年に亘る想い出 (1970~2000)    

 山川隆司 

 去る2月26日,引用分析の先駆者であるユージーン・ガーフィールド博士が91歳で永眠されました。博士の訃報を聞き,私は驚きと悲しみでいっぱいになりました。それと同時に博士との30年にわたる長いお付き合いの想い出が沸々と泡のように湧き上がってまいりました。この泡が消えてしまわないうちに想い出を記録し残しておきたいと思い,今回筆を取ることにいたしました。 


 私が最初にガーフィールド博士にお会いしたのは1970年。フィラデルフィアで新しく建てられたばかりのモールビルディング6階の社長室を訪問した際でした。当時のユサコの社名はユー・エス・エシアテックカンパニーで,私が専務の頃のことです。その頃,社業の発展のために新しい商品を探していたところ,ISI社の発行するCurrent ContentsやIndex Chemicusが候補として挙がりました。私はこれらの商品の将来性をいち早く見越してフィラデルフィアの博士を訪ねました。当時のISI社はまだわが国の研究者や図書館の方々には深くは知られていませんでした。初めて博士にお会いしたときに彼の鋭い洞察力と先見性,そして強い意志に非常に感銘を受けました。特に自社の発行する商品に対し,強い愛着と自信を持っておられることを強く感じました。

 1970年代のアメリカは科学技術の振興に大変力を入れた時期で,巨大な政府予算が研究開発のために使われ,それに伴い大量の論文が出版されていました。これらの論文を迅速,正確に入手する必要がありましたが,従来の抄録サービスでは不可能でした。その間,博士は間隙を縫って,Current ContentsやIndex Chemicusのような速報性を重視した商品を発行し,米国で成功を収めておりました。

 この成功に刺激されてか次々に同じようなサービスが1970年代に登場しました。法律の世界における引用の概念を科学技術・医学分野に持ち込んだのがScience Citation Index(現在のWeb of Science)です。私がこの商品を日本に持ち込んだ際に当時,その重要性を一番よく理解されていたのが慶應義塾大学図書館の津田良成先生です。ほかにもその重要性に気づかれている方はおりましたが,その高額さゆえに真剣に購入を考えに至るまでには大変な時間がかかりました。

 当時はパソコンもインターネットもありませんでしたので,現在の情報サービスの源流はガーフィールド博士が創ったといっても過言ではありません。現代はインターネットをはじめ軍事技術の転用により生まれたものが数多く存在しますが,ガーフィールド博士が自身の創意工夫でこのような商品を考案したことは特筆すべき点だと思います。

 振り返ってみますと当時はコンピュータを使った編集が始まり,色々な新しいサービスが始まった時代でもあります。そのなかで私は情報産業の三大巨人に会うことができました。その一人はPergamon社(現Elsevier)のIan Maxwell氏,それからDerwent社のMonty Hyams氏,そしてISIのガーフィールド博士です。現在ISI社とDerwent社はThomson Scientificを通じてクラリベイト アナリティクス社に至っており,Pergamon社は今ではElsevierの一部門になっています。この三者に共通することは1970年代から始まる情報化社会を予見し,新しい出版物や情報サービスを世の中に送り出したということにつきます。三者とも時代に対する先見性,鋭い洞察力,そして実行力を持っておりました。さらにユダヤ系の企業経営者であるということも共通しています。医学界,金融界にはユダヤ系の優れた方々が沢山おりますが,出版界も同様です。

 ガーフィールド博士はニューヨークに生まれ,コロンビア大学で化学と図書館学を勉強され,その当時は自身の生計を立てるため,タクシーの運転手をしておられたそうです。後年,ガーフィールド博士はISIで財を成したときにわざわざ当時のタクシーと同じ車種の車を購入し,運転手を雇って街を走りまわり行動していたことを私は覚えております。

 ガーフィールド博士の一面をお話するならば,仕事においては大変な成功者であると同時に文化や芸術についても深い造詣を持っておられました。彼はメキシコの前衛画家の作品とサクソフォンのコレクターとして有名でしたが,亀の置物も集めており,私がお土産として渡した際には大変喜ばれました。フィラデルフィア郊外にある彼の邸宅には何度も訪れました。彼の屋敷は1900年代初頭に建てられた3階建ての立派な建築で寝室は7部屋,庭は3,000坪ほどありました。さらに敷地内には川が流れ,橋まで架かっていることに驚いたことを今でも鮮明に覚えております。

 彼は音楽,特にオペラの愛好家で,当時はオペラを楽しむために仕事後の夕方に汽車でニューヨークへ出かけ,オペラを楽しんで,深夜に帰宅するということもよくあったようです。後年にはフィラデルフィアの子供たちにクラシック音楽やオペラを楽しんでもらうためのNPO活動も行っており,私は大変共感を覚えたものです。また,フィラデルフィア市内にはカーティス音楽院でオペラ歌手を目指す若者たちが集まるVictor Cafeというお店がありました。そこで彼らが熱心に歌っているのを聴きながらガーフィールド博士と食事を共にしたことも良い想い出として残っています。

 さて,ガーフィールド博士の個人的なプロファイルについても触れたいと思います。まず博士は煙草嫌いで,酒もほとんど飲みませんでした。辛い食べ物も嫌いで食にはあまり執着せず,いわゆるグルメではなかったと思います。おしゃれにも無頓着な方でした。実際当時のアメリカのビジネス社会ではネクタイを締め,ジャケットを着るというのは常識でしたが,彼はノージャケットで会社に来ていました。

 そうした彼の型破りな性格を表すエピソードとして,Chemical AbstractsのトップであったDale Baker博士から聞いた話があります。スペインで情報産業のトップの方々が会合を開いたことがあったそうですが,ディナーに皆が正装で来ていたにもかかわらず,博士だけが普段着で姿を現し皆が仰天したとのことでした。もっとも後年彼がISI社の美しい女性と再婚した際に彼女の要求によりようやくネクタイを着用するようになった話は有名です。

 ISIの発展後,彼はモールビルから3500 Market Streetにオフィスを移しましたが,その際には働く女性社員のために託児施設をビルの隣につくりました。今では珍しいことではなくなってきていますが,彼の先見性はそうしたところにも表れていました。

 彼は仕事に対し非常に熱心でありましたが,女性にも事欠かず生涯に複数回結婚しています。最後のパートナーはISI社秘書室のインド系アメリカ人で素晴らしい女性で,ガーフィールド博士の最期を看取ったのも彼女であったと思います。

 私はこれまでたくさんのユダヤ人の出版人とお付き合いをしてきましたが,共通する点は皆仕事や交渉に対して非常に熱心で厳しいということです。しかしながら,一度信用されると,とことん付き合ってくれるという側面を持っておりました。

 1980年から1990年の間だったと思いますが,ガーフィールド博士が来日した際に森繁久彌主演のミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」のキャッチフレーズに「とても感動的で,ハンカチを100枚用意しなければならない」と書いてあるのを見て非常に感銘を受けておられました。彼が情に深い人物であったことを示すエピソードとして記憶しております。

 私はそういった方々とお付き合いして現在に至っておりますが,本当にガーフィールド博士との想い出は語り尽くせません。私のこのエッセイを通じ,ガーフィールド博士がどのような人物であったかを皆様に少しでもお伝えできれば幸いです。今日の私があり,ユサコがあるのは彼のお蔭だといっても過言ではありません。ガーフィールド博士,たくさんの教えと想い出をありがとうございました。最後に博士のご功績とお人柄を偲び,謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

追記
ユサコとISI社の関係については4月発行予定の『薬学図書館』に「学術情報の変遷」というタイトルで寄稿しております。ISIの歴史や商品を中心に記述しておりますので,会社についてご興味がある方はそちらをぜひお読みください。また,私とともにガーフィールド博士に大変お世話になったクラリベートアナリティクスの棚橋佳子様にこの場を借りて厚く御礼申し上げます。

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